土のついた文章
私は、生成AIが書いた文章があまり好きではない。
もちろん、生成AIは便利だ。
考えていることを整理してくれる。
足りないところを補ってくれる。
重複を消し、話の順番を入れ替え、誰が読んでも意味の通る文章にしてくれる。
実際、この文章も生成AIによって肉付けされ、整理されている。
おそらく、最初に私が書いた文章よりも読みやすい。
言葉の足りないところは補われ、急に話が飛ぶところには橋が架けられている。
そうやって、文章の角が取れていく。
だけど、私はやはり、生成AIが書いた文章が好きではない。
嫌いというほどではない。
便利なので、これからも使うと思う。
それでも、生成AIによって整えられた文章を読んでいると、ときどき、どこにも引っかからないことが気になる。
きれいに洗われている。
大きさも揃っている。
傷んだところも、泥のついたところも取り除かれている。
スーパーに並ぶ野菜にも例えられる。触っても火傷しない暖炉の映像にも例えられる。
先月号の『ちくま』で、加納愛子さんが、彼女の感じたこと、少し気になったことを書いていた。
文芸誌だ。文章は整っていないわけではない。
ただ、そこには、何か香りが残っているような感じがした。
土がついたままの野菜や、コンロの火のような感覚を伴う文章だった。
発信するに至るまで、どんな時間がかかったのか。
そうした生産の過程や、生み出すときの苦しさが、文章に残っていた。
私たちは、文章に書かれている内容だけを読んでいるわけではないのだと思う。
その人がどこで立ち止まったのか。
どの言葉を選べずに迷ったのか。
どこで少し言いすぎたのか。
何をうまく説明できなかったのか。
文章に残った小さな傷や歪みから、その人が書いた時間を読み取っている。
先日、学生からメールが届いた。
とんでもない文章だった。
何を伝えたいのか分からない。失礼である。
おそらく、生成AIに入れれば、数秒できれいなメールになる。
私は、そのメールに返信しなかった。ごめん。
それでも、私はその文章を、少し素敵だと思った。土がついていたからだ。
何度も書き直したのかもしれない。(いや、それはないか)
送信ボタンを押すまで、長い時間迷ったのかもしれない。一生懸命、言葉を並べたのだろう。
生成AIを使えば、その学生の言いたいことは、もっと正確に伝わっただろう。
失礼のない表現に直され、要点は箇条書きにされ、最後には「お忙しいところ恐れ入りますが、ご確認のほどよろしくお願いいたします」と付け加えられただろう。
私は、そのようなメールなら、すぐに返信したかもしれない。
しかし、そのとき私は、その学生がどれほど迷ったのかを想像しただろうか。
文章が整うことで、伝わるものがある。
一方で、整えることで失われるものもある。
私たちは、文章を情報としてだけ読んでいるのではない。
書いた人のためらい、癖、未熟さ、焦り、体温のようなものも読んでいる。
だから私は、人が書いた文章が好きなのだと思う。
不正確で曖昧だから好きなのではない。
もちろん、土は落としたほうがよいこともある。
読めない文章では、考えは届かない。
傷つける言葉や、誤解を生む表現は、直したほうがよい。
だから、生成AIに文章を整えてもらうこと自体が悪いわけではない。
ただ、洗いすぎないほうがよい。
形を揃えすぎないほうがよい。
少しくらい曲がっていても、傷があっても、その人が書いた痕跡は残しておきたい。
この文章も、生成AIによって整えられている。
おそらく、私が最初に書いたものより、よくできている。
それでも、どこかに土が残っていてほしいと思う。
私が、生成AIを便利だと思いながら、どうしても好きになれないという、その少し矛盾した感じが。
きれいに説明しきれないまま、残っていてほしいなぁ。
ガヴァガイ

